「音楽感」の複雑化を整理する

“音楽を取り巻く言葉について考えることが軽んじられることには抗いたい”という後書きの一節にグッと来た。
ちょっと前に書いたことに「んなこたぁねーぞ!」というお怒りの言葉をもらったようにも感じた。

増田聡・谷口文和著
音楽未来形―デジタル時代の音楽文化のゆくえ

いきなり会社にこの本が版元から送られてきた。最近全然本読む暇どころか本屋に行く時間すら作れなくて寂しい思いをしていたので、常に携行して3日ほどで読んだ。谷口さんは後期のele-kingで翻訳を担当していた人で、なおかつ共著としてはかなり珍しい執筆スタイル−DJたちが行っているようなリミックスの手法にならって執筆された。章ごとにおおまかな分担を決め、ひととおり書き上がったところでもう一人の著者に送り、その文章を書き換えてはまた相手に戻す−で書かれていることから推測できるように、DJカルチャーや電子音楽以降のある種のポピュラー音楽に顕在するさまざまな理論と実践の歪みみたいなものをとっかかりにして、音楽ってそもそも何よ? 侃々諤々はいいけどそもそもみんな共通のコトバを持ってないんじゃないの? という疑問を提示して、その回答へ向けてひとつの方向性を指し示したという内容になっている。どんな偉大なDJでもいつでもどこでも通用する黄金のセットみたいなものを持ってるわけじゃないのと同様、唯一絶対の「答え」を提示しようということより、音楽学という“骨董的学問”の現場に身を置きながらも感じていた現在の音楽状況のさまざまな「ズレ」の気持ち悪さに対して、あくまでも自分たちのフィールドから丁寧な資料を添えて疑問を呈したという。

テクノとかDJ文化に関わって初めて見えてきたことというのはものすごくたくさんあって、それをどうにか一般化してみたいという気持ちはあっても、出発点や引用もとがマニアックすぎて、またすぐに「考えるな、感じるんだ」という横槍が入ってしまうので、かなり巧い手法やレトリックを使わないと徒労感ばかりが残る結果となる(BODY MUSICのジレンマ)。僕が感じる印象はかなりバイアスがかかってると思うので当てにならないかもしれないが、歴史の復習と前提の整理に終始している感のある前半に比べ、4章以降の生き生きとした(ちょっと悪ふざけしてる印象すらある)トーンはじわじわ抑えていたプレイがドーンと盛り上がる転換を迎えたような爽快感があり、素晴らしい。こういう俯瞰的な内容を書こうとすれば、自分で直接見聞きし得たこと以外は過去の資料にあたって内容をコピーするしかないので、どうしたって100%自分の言葉で書けることとの温度差が出てきたり劣化した既視感しか与えなかったりする。それでも、資料が膨大であればいくらでも料理のしようはあるけれど、そもそもこの手の資料はあまりにも少ないのだ。くそまじめに懇切丁寧に語りかけるという基本はずっと維持しながらも、そんななかで微妙にはみ出す部分(池田正典の破綻した日本語によるレヴュー文をDJによるテキストのサンプルとして詳細に解説したり、“レコ掘り”とか“アンセム”とか現場の深いところでしか流通しない言葉が普通に混入されていたり、小林亜星服部克久による著作権紛争と同列にマッシュアップによるDanger Mouse『Grey Album』が取り上げられていたり…)が著者のこだわり(というか、ちょっとした嫌がらせ?)を感じられてヒジョーにオモシロイ。

僕自身、CCCD問題だとか、このところの音楽を取り巻く状況の激変でかなり一般レヴェルまで著作権だとか音楽はこの先どうなってしまうのかみたいなことを考えるきっかけが増えたのはいいことだと言ってきたんだけど、今後は「とりあえずコレを読め、話はそれからだ」ということになるかも。まず同じ土俵に立たないと、同じ言語を話さないと。そういう意味では、この本が強引に結論や解を提示しようとしなかったのは、とってもよかったと思う。きっとまたしばらくこういう文章が出てくることはないんだろうし、無批判に「聖書」みたいなものができちゃうのは議論が噛み合わないよりもっとひどいでしょう。