アニメ版『プラネテス』の居心地の悪さ

先々週から始まっていたなんてことを気付かずにいた。まさか朝の8時なんて素っ頓狂な時間にやってるとは思わなくて、まだ始まらないのかなぁなんて新聞のテレビ欄の下の方を眺めていたんだ。

それでいきなり3話から観ることになった。久々に原作が掲載されたモーニングの欄外告知で初めて正確な放送時刻を確認して、やっとのことでビデオをセットして。

原作ではかなり後の方のエピソード、宇宙葬の話である。
事前情報は全然入れてなかったから、ここまで話の順番や世界観をいじっていることを知らなくて正直びっくりしたというか、あまりにもきもちわるいアニメになってしまっていたことにまずマイナスの衝撃を受けた。確かに原作をなぞったところで30分ものが2クール続けられるわけはないのだし、独自の設定や演出を導入しなければならないのは火を見るより明らかだ。だからといって、今回のエピソードにおける保険外交員がどかどかやってきて契約を取ろうとドタバタを繰り広げるなんて不必要な弛緩した部分(特にひとりの外交員が巨乳でパツキン)は、古びたクリシエを延々と見せられているようで、それが死と向きあうとか書けない遺言とか自分の還る場所とか、この作品でずっと語られる重要なテーマとどうやって絡むのかぜんっぜんわからない。

踊る大捜査線』とか観たなら、3アミーゴスがフィーチャーされた本編と絡まないように進行するどうでもいいサイド・エピソードをコメディー・タッチで描くあの手法が有効なんじゃないかっていう気もしちゃうんだが、そこには周到な計算も組織論も必要になってくるわけで、とりあえず現状の『プラネテス』って単に話を膨らませるためだけに会社組織っていう箱を作ってしまったのだという印象が強すぎる。そもそも『踊る…』には、『パトレイバー』なりを実写に置き換えてしまうという蛮行を新鮮に見せるだけの発想の転換と配役の妙があったけれど、大げさなアニメ文法を使ってあのシリアスな世界の中で日本的なカイシャのパロディーをやられてもねぇ…。

幸村誠の原作は、何が潔いかといえば、恐らくその個と家族とに執着した視点だと思う。そもそもデブリ回収船におけるハチとフィーやユーリの関係性もそうだし、タナベ出生の秘密も、フィーと子供と犬との関係も、木星行きのクルーにゴローが入っていることも、すべてそこに帰結するじゃないか。
時間をかけて(もしかしたらほとんど独りで?)コツコツとゆっくりと作品を発表する幸村の一番本質的な部分がそこにあるようにも思えるし、だからこそ幻想的な家族のカタチだけが拡張されたような日本的なカイシャが、その精神性を単純に拡張できるとはどうしても思えないのだけれど。そもそも会社どころか地域社会にすら馴染めない存在だったりとか、家族の中ですら生じる軋轢こそがこの作品の肝なのではないかと。毎年恒例の遺書書きを会社に強制されて悩むとか、もうすぐ定年だから生保は要らねぇとか、そういうせせこましいルールとか計算で規定される「愛」とかじゃないんだと思うんだよね。

それって、空港から海外旅行保険を「あなたを受取人に指定しました」って出して、これでハートは射止めたね、みたいな愛と命の大安売りとどこが違うのさと。いや、現実はそんなものなんだろうけど。
やっぱり「そばにいる者を踏み台にでもしない限り星々の高みに手など届かん」のかどうかで葛藤してしまうハチだからこそ愛しいわけで。