「ハッピーバースデー」はもう歌わない権利も、ある

町山智浩さんの日記で出てきた著作権がらみの話。
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20040519

※ここはナウな若いみんなの広場、ではなく、オイラの日記です。
という注意書きがあるので、コメント欄にこれ以上書くのもと思い、自分のところで継続してみます。

まずこの日の町山さんの日記を読んで思ったことは、おお、またしても素晴らしい小咄だなぁというもの。いつもながら、話の展開とオチの付け方が、それに引っぱってくるネタが(ひねくれ者たちには)ちょうどいい湯加減でキモチイイ決まり方。アメリカ人の書くコラムにはこういうものが多いけど、日本でこういうブラックさや笑いをこめつつズバッと音のするようなコラムが書ける人はプロでもあんまりいない。

いつもなら、それで満足して流しちゃうのだけど、今回のはたまたま自分の近いところの話題だったからひっかかるところがあったわけ。

最近では著作権周りの議論というのもあちこちで行われるようになって、それはいい状況だと思うんだけど、いまだにJASRACが硬直した日本の音楽業界の悪の根源みたいな認識がはびこっている(そういう側面がないわけじゃないんだけど、例えば原盤の権利に関してはまったくJASRACは無関係だし、JASRACのような著作権管理団体がなくなれば著作権者や利用者がハッピーになるという単純な話ではない)とか、ろくに調べもしないで短絡的にデカイ組織=巨悪みたいな考えを持って、「ぶっつぶせ!」的なことを言う人たちもたくさんいる。
たぶん熱狂的なファンが多い町山さんの文章で書かれたことは、もし事実誤認があったり、そうでなくても微妙な言い回しが誤解されたりすると、そういう簡単に悪の根源をでっちあげたいと思ってる層には毒にもなりうるんじゃないだろうかという危惧。いつもならそこまで考えないし、それは考えない受け手側の責任でもあるんだけど、そういう思いを抱いた。


で、ここから本題だ。
町山さんの主張は読めばわかるように、大企業が著作権制度を濫用して、本来パブリックドメインでいいはずのどこにでもあるような言葉などを登録して、巨利をむさぼっているというもの。力の弱い表現者は、うかうかしてるとすぐに訴えられたり使用料を請求されるようなよくわからない仕組みに世の中がなっちゃってるよという警告。

この辺の主張は、レッシグが訴えているコトとも重なっているし、誰もが感じていることだと思う。映画なんて作ろうと思ったら、背景に写っているものからなにからとにかく徹底的にクリアランスを確認していかないとえらいことになってしまうという。

僕が個人的にひっかかった部分というのは、最初にアップされたヴァージョンでの町山さんの主張で、「ハッピー・バースデー」という誰もが知ってる歌、その楽曲(メロディー)は古くから存在しておりパブリックドメインだが、歌詞は作曲者の姉妹が後から登録したので歌詞だけは著作権が生きており、今現在その歌詞を映画や本で使用したら著作権使用料を支払わなければならない。その金は、現在の権利者のワーナーという巨大企業に年間2億も払われているんだけど、歌詞といったって、Happy Birthdayなんてどこにでもあるものじゃないか? という内容。

−つまり

  • 僕が知っている限り、作詞:×× 作曲:○○と分けて考える日本の楽曲の著作権管理法は特殊で、欧米だとwritten by やcomposer, autherみたいな形で、作詞も作曲も列挙される(区別されない)はず。つまり、ある曲の歌詞だけが例えば小説で引用されて、著作権使用料が支払われたような場合、「これは歌詞だけの使用だから、作詞者の××さんにのみそれを分配して、作曲者の○○さんには払わない」ということはないんじゃないかという疑問。
  • 曲自体もヒル姉妹が作ったのだが、急に法律ができて「これ以前の曲は全部パブリックドメインね」と言われたから慌てて違う歌詞をつけた新たな曲として登録し直したら、それがヒットして後々まで残る超有名曲になり、その後のディズニーやらのおかげでどんどん有効期限が延びていっていまだに著作権が生きているという状況になっただけ、だったら「歌詞に創作性なんてないからおかしい」という主張はちょっと違うんじゃないかという疑問。「ラップなんてただ早口でしゃべってるだけなのに、楽曲として法律上は守られてるなんておかしい、こんなの音楽じゃない」と言うのと近い。
  • 曲の権利者と一口に言うけれど、個人(作曲者自身)が曲の権利をすべて保有して管理しているケースというのは現在ではほとんどない。作詞・作曲者は音楽出版社と契約して自作曲の権利を委譲した上で、出版社が原著作権者になりかわって著作権管理団体への曲の登録や利用状況のチェック、それに利用料支払いをまとめて受けたりして一旦金を預かって、あとでそれを分配するのだ。作曲者の元にいくらはいるかは契約次第だが、日本だと50%というのが普通(作詞・作曲と二者が関わっていれば25%ずつ)。つまり、出版社はエージェントみたいなもの。ビートルズヒル姉妹のケースでどういう契約が結ばれてるのかわからない(通常この手の契約には守秘義務が盛り込まれるからそれが外部に出ることはないはず)けれど、「曲の権利が売られた」と言うと、まるで原著作者の元へは一銭も入らず、マイケルやワーナーが入ってくる金を総取りしているように聞こえる。もし、出版社が変わったというだけの話なら、「力のある者が富を独占してる」というように聞こえる説明は、ちょっと悪意あるものになるんじゃないか。


1に関しては、よくわからない。僕も出版業界は長いので、マンガだろうと小説だろうと歌詞を載せた時点で著作権使用料を払わなければいけないというのはよく知ってる。
ちなみに、JASRACでは、ここに書いてある。海外でも同様だけれど、その分配金が作詞者だけに行くということがありえるのかは、個別の出版社と作詞・作曲者間の契約によって異なるのだろう。今回の場合とはちょっと違うけど、ドラえもんの主題歌のメロディーに全然違う歌詞を乗せてCDを出したらすごくヒットしてしまったとする。それもすごく単純でどこにでもある言葉を、メロディーのごく一部に乗せただけのものが(ダンスミュージックなら十分ありえる)。この歌詞を同様に出版物で使用したら、「メロディーは借り物で、こんな簡単な言葉を乗せただけなのに著作権を主張しやがって」と怒るだろうか。複雑だろうが簡単だろうが、著作物であることにはかわりがない。ジョン・ケージの「4分33秒」という何も演奏しない曲がある。ASCAPでこれを調べたら、ちゃんと登録されている。いくらコンセプトが素晴らしかろうと、何も演奏しない曲だ。楽譜も言葉も何もない。それを登録するなんて厚顔無恥だろうか?

で、2に疑問が移って、町山さんが示してくれた英語の元ネタサイトを読んでいたら、問題はそう簡単じゃないことがわかった。「Happy Birthday」の元ネタになった、現在は著作権切れの曲「Good Morning To All」(ヒル姉妹作)は、「たまたま法律改正でパブリックドメイン化された彼女たちの完全なオリジナル」、というわけでもなく、それ以前にもかなり類似した曲が存在したというのだ。

according to The Book of World Famous Music by James Fuld, the 1858 song Happy Greetings to All is very similar to the Hill's song. Also in 1858, a similar tune Good Night to You All was published. Therefore, Good Morning to All might not have been a completely original song even in 1893

それに、1934年の法廷闘争でヒル姉妹が勝ち取ったという「Happy Birthday」の権利にしても嘘っぱちで、もっと前に同じ歌詞で出版されているものがあるから、パブリックドメインなのだ(もし、その使用で金を払わされる羽目になったら彼らがその損害を倍返しするそうだ!)と主張している組織もある。

Searching further, I found Katzmarek Publishing, a music publisher specializing in public domain music who claims that he and others have publications of "Happy Birthday" - with the lyrics, that are not covered by the 1935 copyright. (Of course there is no public comment by Warner on this.) Mr. Katzmarek told me via email that he believes Warner knows that their copyright on Happy Birthday to You could get ruled invalid in a court of law, and therefore the documentation he sells acts as sort of a legal shield.

He states on his Web page: "Happy Birthday Document (proving that it is public domain.) A 1935 copyright is invalid according to us, double your money back if we are wrong. (Many people have been ripped off by this dilemma)"

う〜ん、こうなってしまうともうわけがわからない。著作権マフィアみたいな連中はいまでもたくさんいて、例えば著作権切れのものや誰もがパブリックドメインと思っているものでも勝手に使うと訴えられてしまったりという危険はたくさんある。当然、裁判すれば勝てるんだが、相手はそれで喰ってるから簡単に引き下がったりしないし、争う時間も手間も無駄だと思えば、使用者側も多少金払えば騒ぎが収まるならと手切れ金みたいに金を出すことが多いみたいなんだ。JPEGやMP3のフォーマットでも、おんなじような問題が起きてるでしょう。


それを踏まえた上で3の疑問を考えると、悪いのは法なのかそこに付け入る大企業や独占権益を持つ組織なのか、みたいな話になってくると思う。本来、著作権関連の法は力の弱い著作者を守るために作用するべきだし、著作物の内容や作者の属性で保護の度合いを変えるようなことはあってはならない。じゃあその手厚い保護のためのルールを悪用している輩がいるのかというと、半ば強引に金を取り立てようとするJASRACみたいな存在も、へりくつをつけてでも著作権を守ろうとする企業(ワーナーは、Good Morning To Allの「Good」とHappy Birthday To Youの「Happy」では音節数が異なるから違う曲と主張)も、著作権者にとっては頼もしく心強い存在であるはず。法整備が行き届いていなかった時代のものの取り扱いや、逆に新しいもので作品の作り方や売り方がどんどん変化しているのに追いつけてないという部分は多々あるだろうけど、例外的な部分だけをつついて、だから著作権保護なんて要らないっていうのは極論にすぎないと思うんだよね。
例えば、http://d.hatena.ne.jp/toronei/20040521にて、【有名な話しかも知れませんが、大槻ケンヂが自分の著書に自分の詞を載せたらJASRACから『金払え』といわれて、JASRACの手数料引かれた分が返ってきたと言ってました】と書かれている。これも変に思うかもしれないが、JASRACにしたら作詞者と本の筆者が同一人物だという可能性を検証して、いちいち例外規定を作るわけにもいかないし、大槻ケンヂはむしろ、自分の曲に関してちゃんと徴収が機能していることに感謝すべきなんじゃないのか(ただし、そのようなケースで設定されている徴収額が高すぎるとかJASRACの手数料が高すぎるとか実演家や編曲家などに比べて作詞や作曲という部分のみが厚遇されすぎているとか、そういう料率や仕組みに関する各論は別の話)。



今朝の朝日新聞を読んでいたら水の値段に関する記事があって、ミネラル・ウォーターが高いか安いかみたいなことが書いてあった。ボトル詰めされて売られる水の値段は年々下がっていて、4年前に1リットルあたり107円だったものが現在では94円(東京都区部の平均)だそう。ガソリンが107円で烏龍茶は126円というのと比較すると、高いんだか安いんだかよくわからない。
ボトル詰めの手間や殺菌・水質管理、それに輸送費が値段に跳ね返ってるということだけど、元はタダの水。でも、意外にミネラル・ウォーターがボッタクリだって主張する人にはほとんどお目にかからない。

翻って、音楽みたいな無形のモノに対しては、そんなものタダでいいじゃないかという声が日々高まってるようだ。それを生み出すのに苦労した制作者本人に需要に応じて報酬を還元するというシステムはもとより、作品を世に送り出す過程に関わっている人たちは無駄な存在だという。借りてきたCDをRに焼いてジャケはスキャンしてプリントして手元に置いておくとか、高速な回線を引いてPCやHDに投資して時間と手間をかけてどっかからファイルを落としてくるという代替行為って、水源に行けば水はタダだから、大量のポリタンクを積んで毎週「おいしい水」を車で汲みに行くっていうのと大差ないように思う。別にそうすることは個人の自由だけど、汲みに行ったら柵が張られていたことに文句言うとか、水源の権利者に飲料会社から金が払われるのはおかしいと糾弾したり、飲料会社の手間に対してお前らは中間搾取してるだけの不要の存在だから消えてなくなれと暴言を吐くことが許されるだろうか。