魚心あれば

夕方からの長々と続いたミーティングが終わり、起きてから何も口に入れてなかったのでぎゅうぎゅうと胃が鳴く状態で家路を急いでいた。珍しく東横線の駅まで自転車で行っていた。ある時刻以降は管理人が帰ってしまうので無許可で停めている。よくそれを忘れてまっすぐ家に帰ってしまい、放っておくと撤去されてしまうので深夜に取りに行ったりする。そういうことがないように、ボーっとしているとやばいので気をつけて、暗い中自分のチャリを探しながら歩いていた。

ふと気付くと、白いFOMAが無造作に柵の上に置いてある。いや、置いてあると言うよりむしろ落ちているという感じ。誰かが拾ったものの、めんどくさいからそのまま放置していったのだろうか。

疲れていたせいもあって一旦は通り過ぎたものの、やっぱりちょっと気になって引き返してみる。1メートルくらいの距離で見ると、じゃらじゃらとたくさん重そうなアクセサリーがぶら下がっていて、どう見ても若い女の子の所有物としか想像できない。そう思って、じゃあと急にやる気がでるのもどうしたものか。

端末を拾い上げて、2.5秒くらい考える。

  1. 操作できないようにロックされていたら即交番に届ける
  2. 明らかに落とし主が男だったら即交番に届ける
  3. 落とし主の家か家族に連絡してみてつながらないようなら即交番に届ける

そうしよう。ちょっと、賭けというか遊びで。幸い交番も近くにある。めんどくさいことにはならないだろうし。

カパッと二つ折りのFOMAを開くと、待ち受け画面には一昔前のプリクラのようなちょっとギャルっぽいふたりの女子高生の写真。ぴ〜す! ご丁寧に手書き文字の落書きまである。ひとりは、まぁどこにでもいる感じだけども、もうひとりはめちゃくちゃカワイイ。上戸彩から少しはすっぱな感じを減らしたようなというか。

当然というか、着信があったことを報せるマークがついてる。着信履歴を表示させると、最新のものが非通知、その前に「おかあさん」というのが10件くらい3分おきくらいに入っていて、もしかしたらもう電話を落としたことに気付いていて母親に頼んで電話をかけてもらったか、いつまでも帰ってこない不良娘を叱ろうとして電話したものの、全然つながらないから焦って何度も何度もコールしたのだろうか。

これならすぐに片は付きそうだと、その「おかあさん」をリストから呼び出して、電話する。
トゥルルルル…
FOMAの音質は結構いいので、呼び出し音もクリアに聞こえ、どこか虚しく響いてくる。つながる気配なし。10秒ほどすると、留守電になってしまった。

最初に考えたルールに従え。もう、交番へ行こう。
いた場所からは、徒歩で20秒くらいで交番がある。そちらへ歩き出すと、目の前に女子高生がやってきた。暗くてよく顔は見えないから、待ち受けの「いえ〜い!」なふたりのうちどっちかに似てるかというのもわからないけど、とりあえず訊いてみよう。

「あの、すみませんケータイ拾ったんだけど、あなたのですか?」

自転車を出しながら、間近で見たら明らかに待ち受け写真のギャルたちよりずっと真面目そうな少女は、いかにも怪しい男を睨むような感じで、「ちがいます」とだけ言ってさっさと去っていく。

一気にやる気が萎えて、交番へ向かう。
2メートルほど先に交番の明かりが見えたところで立ち止まった。道を聞いているのか取り調べを受けているのか、交番の中ではグラサンにアフロの若い男が警官とサシで話している。奥にはまだ別の警官がいるかもしれないが、落とし物だと渡してすぐに帰るというわけにもいかなそうな雰囲気だ。どっちにしても、どこで拾ったかとか調書をとられるんだろう。

もう一度、端末を開いてみる。1/2の確率だけど、もし、こっちの娘だったら。ちょっとそんなことを考える。さっき電話したとき、端末を顔に近付けるとフワッと漂ってきた若々しいコロンの香りの記憶も鼻孔をむずむずとさせるようだ。

「ごめん」

小さい声で呟きながら、アドレス帳を開いてみる。「ともだちぃ」とか「家族」とかちゃんとグループ分けされていて、自宅の番号はすぐに見つかった。

5回ほどコールすると、彼女の自宅の電話はカシャという音とともに転送された。もう10時もすぎようというのに、家に誰もいないってどういうことだよとか思いつつも、転送先の誰かが電話に出てくれることを祈る。

「はい。田口でございます」

上品そうな女性の声。きっと、「おかあさん」に違いない。
なるべく怪しく聞こえないように、事情を簡潔に説明する。

「あぁ、ありがとうございます」
  “やっぱり落としたんだって。今、拾った人から…”
「いま、どちらですか? よろしければ取りにうかがいます。あ、駅のそばですか? 今、本人も一緒におりますので、ちょっと替わりますね」

「すいません、わざわざ」
ちょっと舌っ足らずな感じの声は、落ち着いて威厳さえ感じさせるような母親のそれとの落差もあって、胸を打つほどの爽やかさだ。どうしよう。近くにいるって言ってるし…。

「いますぐ取りに行きますので、場所教えてくださいっ」

ちょっとドキドキしてきた。

(続く)