魚心あれば・完結篇

いまさら駅までとって返すのも面倒だし、一旦家に帰って軽く飯でも喰って、落ち着いてから自転車は取りに行こうと思った。なんかまたあっちの方に戻ったら、いもしない人の影を探してキョロキョロしたりしそうだし。

たぶん遅くなるんで準備不要と伝えてあったから、ダイニングテーブルの上にラップのかかった夕飯が待っているなんて暖かい光景は、ない。しようがないのでフリーザーからラップされた白米と冷凍食品なんかを適当に見つくろう。

「えー、食べてこなかったんだ」
「あ〜、うん、なんか疲れちゃってさぁ。しかもボーっとしてたら駅にチャリ置きっぱで帰ってきちゃった」
嘘はついてないんだ、ウソは。ただ伝えてる情報量が少ないだけで。

ソファでくつろいで紳助が司会やってるバラエティーを見るともなく眺めてる妻と、「この人、ほんと仕事しすぎだよね」とかそういう類の、たぶん既に何度もこの狭いLDKで繰り返された世のためにも人のためにも自分のためにもならないどうでもいい話をしつつ、少し煮込みすぎてほうれん草がグリーンじゃなくてビリジアンみたいになってしまった残り物の味噌汁を流し込んだくらいのタイミングで、ビリビリとけたたましく僕の携帯が鳴った。
ドキッとした。実際、ビデオカメラで撮影でもしてたものなら、必要以上に反応している瞬間が映し出されていたはずだ。マンガちっくな描き文字で“ビクッ”って入れたいほどの挙動不審のビビり加減が。

会社からの連絡だった。さっきの会議で決まった内容をどうやって実務に反映させていくか、段取りの確認とか。「あ〜、うん、そう」なんて。家で仕事の電話に出ると、なんか不必要にえらそうで無愛想な受け答えになってしまうのはなんでなんだろうか。

つーかもう11時だし、今から電話なんてかかってくるはずねーし。
「汗かいたから、シャワー浴びるわ。先寝ちゃってもいいよ」
なんだよ、先寝ちゃってもいいよって。わけわかんね。そんなこと言った試しねーじゃん。しかもまだ11時だし。

結構よくあることなんだけど、シャワー浴びている最中に、果たして自分は髪を既に洗ったのだろうか、それとも先に身体を洗ってこれから髪を洗うんだろうかってわからなくなった。髪が長いときはそれでも、頭に手をやって「あ、濡れてるな。シャンプーの香りもする。洗ったにちがいない」とか納得できたんだけど、坊主になってしまうとそんな痕跡すらない。別にざっと頭を濡らしても苦にならないから、風呂場に入ってすぐに頭からシャワーを浴びていてもなんら不思議はないわけだし。そんなボケ老人みたいな悩みを抱えて、結局出る前にたわしをかけるみたいなシャンプーをして、風呂場から出た。

「あ、また電話鳴ってたよ」とあくびをしながら言う妻。
「え、また会社かな? まだ仕事してんのかよ。さっきちゃんと説明したのに。ま、いいや明日で」ちょっと焦ってることを悟られないように、いつもならすぐに履歴確認するクセに放っておく。で、向こうが歯磨きしに洗面所へ行った隙に、小さいバッグに財布と携帯を詰め直して、さっさと着替えを身につける。
「じゃさ、眠くならないうちに、駅からチャリ取って来ちゃうよ。朝になったら撤去されるかもだし」

さっき下りてきた坂道をまた登る。駅までのルートはどのコースを辿っても坂を登って頂上からまた下るというだるい道のり。飲んだ後とか、ひとりとぼとぼ歩くのは結構つらい。バッグから携帯を取り出すと、着信履歴を表示する。
えーっと、ちょっと信じられないんですが。
なんで電話してきたんだろう。
二三時二二分四五秒。2分ばかり進んでるはずの左腕のデジタル時計を意味もなく5回ほど確認してしまう。コールバックオアノット?
結局、かける。夜道をひとり帰宅する女性は、なんとなく恐怖心から逃れるために必ず誰かと電話で話しながら歩くとかって聞いたことあるけども、ひっそりとした夜道に声を響かせながら歩くなんて趣味じゃないんだよなぁ。いっつも声がでかいと言われるし、ホント気をつけないと。

コールは1回。すぐに相手が出る。
「もしもし? さっきケータイ届けたヒトですが…。電話したよね? どうした?」
「…うん、あの。さっきはホントありがとう。前も一回なくしたことあって、FOMA高かったし、今度は自分で買いなさいよとか言われて、すっごいあせってたし。めっちゃ感謝してます。あんな親切な人いるんだねぇとか、おかあさんとも話してて、ちゃんとお礼しなさいよって言われて…」
本当にそんなことが言いたくてわざわざ電話してきたのかい? もうお子様は寝る時間だぜ。
「いや、そんな大したことないよ。いいよ、お礼なんて」
まぁ本当に改めてお礼するだけなら、この場この瞬間ですべてが終わってしまうんだよ。
「外なんですか? なんか車の音が」
「あぁ、そう。実は駅までチャリで行ったの忘れて。そのまま家に帰っちゃったんで、放っておいて撤去されないように歩いて取り返しに行くトコ」
「ハハ、結構ボケてるね」
で、ボケといえばと、さっきの頭洗ったかどうかわからなくなるというバカ話を繰り出して、ちょっと笑いを取ってみたりする。他愛もない会話。クスクス笑い。微妙な腹のさぐりあい。おい、娘ッコ相手にそんなジャブ放ってどうする。お前は一体幾つなんだ?

「あの……すいません、ウチ、駅からすぐなんだけど、これからちょっと会ってお話しできませんか?」
  なんだ? 突然どうした。
「相談したいことが…」
  いや、だってまずくねぇか。平日だし。親の目盗んで抜け出すの?
  そもそもこんな時間じゃ、飲み屋くらいしか開いてねえッス。
  高校生呑みに連れてったら犯罪、かもだそ。そ、じゃない、し。
「店とかもうやってないじゃん。明日にしたら? もう遅いし」
「いえ、今日じゃないと…」

指定された待ち合わせ場所は、駅近くの深夜までやってるマンガ喫茶
「たまに夜行くんですけど、平日は結構ガラガラなんで」

たしかに、ちょっと薄暗くなった蛍光管に照らされた怪しげな階段を降りて店内へ入ると、ほとんど人気がなく、エアコンの音だけがブーンとうなりを上げているようだった。壁に向かって仕切られた誰もいない読書スペースに整然と並んだ黒い革張りのリクライニング・シートがひとつだけ、こっちを向いていた。
カジュアルな格好に着替えた彼女は、無粋な雑踏の明かりに迷い込んだ昼の陽光に輝くはずの蝶のようだ。スカイブルーのキャミソールに今っぽいオフホワイトのだぼっとしたTシャツ。たった今寝室から抜け出してきたとでも言わんばかりの部屋着らしき短パンの足下は、ビーズで飾られたビーサンだった。

「すいません…お礼とか言って、なんかワガママ聞いてもらって」
  泣いて、いる? 様子がちょっと変だよ、ヘン。
「実は、嬉しくて、ちょっと舞い上がっちゃって、あの後友達に今晩のこと話したんですよ。親切なひとがいてぇとか2時間くらい探してたのにみつかんなくて、チョー偶然駅の近くから電話してくれてぇ−なんて。一緒に喜んでくれるかと思って」
  ん〜、雲行きが怪しく…
「したら、なんか怒り出しちゃって…。なに、そいつに電話番号教えたの? とか、2時間も経ってたなら、メールとか写真とか全部見られたかもとか、いろいろバッドになるようなこと言い出して…」
  つーか、それ、友達じゃなくてカレシだよね? 間違いなく。
「ストーカーみたいな奴だったらどーすんだよとか言うんですよ。そんなわけないじゃんって怒ったんだけど。しまいには、キレだして、そいつの番号わかってるんだったら、絶対電話とかしてくんなって俺から話すとか言い出して。番号教えろ教えろって。さっきまでチョーけんかしちゃって」
  おいおい、『キスイヤ』ですか、コレは…。
  こわ! 男の嫉妬こわ!
  いや、全否定はしませんけども。まったくそういう気持ちがなかったとは。
  で、泣きますか。やっぱり。
  女の涙はなぁ…。

「わかった。もう泣くのやめな。こっちから電話するようなことないしさ。そっちからも、もうかけるのよしなよ。それだけ想ってもらってる相手に心配かけちゃ悪いしさ。絶対、今晩直接会ったなんて言っちゃダメだよ。もう番号消しちゃったって言えばいいじゃん。ね?」
うん、うんと、涙をすすりながら彼女が頷く。
肩が上下に揺れるペースがちょっと落ち着くのを待って、自分の携帯を取り出した。
「今ここで、さっき登録したキミの番号、俺も消すよ。そしたらもうかけられないじゃん。そうしようよ」

アドレスから消去するだけで関係が丸ごと消滅するなんてなぁ…。所詮イマドキの人間関係ってそういうものだったりするよなぁなんて、妙に諦念中年っぽい考えが頭をよぎる。機械的に彼女の登録番号を呼び出して、数時間前に相手がやってくれたように、見せる。「じゃあ…」

「ウエトって、誰?」
  あっちゃ〜、この期に及んでそんなこと気にする? 説明させる?
  気にするよなぁ。する。
「いや、あの、上戸彩にちょっと似てるかなぁ、なんて。言われない? ほら、名前も聞かなかったしさ」
クスっと、ここに来て初めて彼女が笑った。
「たまに」

というわけで、消去ボタン一発で彼女の番号は僕の端末から永遠にデリートされ、「ホントごめんなさい」と何度も頭を下げながら消えていく彼女の後ろ姿を見送った僕の心は下りるとこまで下りきりましたというくらいドヨーンと沈んだ。また忘れたまま帰ると絶対立ち直れないくらい落ちると思ったんで、路面を見つめながらとぼとぼと自転車の方へ歩いた。
鬱々と解錠して、颯爽とはほど遠い体たらくでマイチャリにまたがると、どーにもこーにもペダルが重い。すごい、空気抜けまくりでございます。パンクまではしてなさそうだけども。とてもガツガツと坂をこぎ登る状態じゃない。
つまり、下がりきった僕は、一歩一歩自分の脚で頂上を目指し、なにやってんだという自責の念と共にマイホームまでまた下っていくわけだ。

幸い、家に帰るととっくに奥方は床についていて、「いやぁなんかチャリのタイヤがさぁ…」とかホントなんだけどちょっと情報が足りない言い訳をしなくてもすんだのであった。



何事もなかったように夜は明け、またしてもあくせくと働くために家を出て、今日は早いかもなぁと言い放ったのに結局9時近くになって帰宅する。
夕刊とか郵便物の束の上に、ソニープラザの小さな包み。

「なんか、それ、帰ってきたらポストに入ってたよ。なんだろ?」
「わかんね。誰か近所引っ越してきた?」
まさか爆発したりはしないよなと、ちょっと振るってみてから袋を開ける。
中には、こじゃれたメガネケースと、淡いピンクの封筒。
まさか、ですよね?

==============================
やさしいメガネでボーズのお兄さんえ

きのう、やっぱり気になって、ちょっと引き返したら
チャリ押しながら歩いてるのを見ちゃった
悪いと思ったんだけど、家までこっそりついていっちゃった
どっちがストーカーだよ、ねぇ(;^^)

せっかく親切してくれたのに、ちゃんとお礼もできずにスミマセン

ケース、使ってね♥
気に入ってくれるかな?

==============================

ほんとはもっと、アレだ、あのいろいろ記号的なモンがいっぱいある
イマドキな文が、イマドキな文字で綴られていたわけだ。
ちゃんと再現できないんだけど。

「なに、これ? あやしいなぁ」封筒をつまみ上げて揺らしてる妻の視線が痛い。
そして、その裏書きが目に入った。

“ウエトより”