クリスマスの晩に

10週にも渡って仕事を手伝ってくれていたインターンMariaが、一応今日で最終日ということもあって昼に軽い食事会をして、その後は黙々とやり終えなきゃいけない作業を遂行しているのを横で見ていた。途中でクリスマス休暇にあわせて来日中のボーイフレンドを呼び出して作業を手伝わせ始め、なんというか目的を遂行するためには手段は問わないという西洋的な力強さをまざまざと見せつけられた気がした。
そもそも日本人だったらいきなり職場に恋人を呼び寄せるという行為に躊躇するだろうし、職務上の判断としてそれが許可されるような場合はほとんどないと思われるから仮にそういう選択をしたとしても影でこそこそと(誰にも口外しない/できない社内恋愛みたいなノリで)やるという結果になってしまうだろう。それって単におまえが統制できてないだけで放し飼いがすぎるからじゃねーの?って問われてしまうとそうなんだろうねというぐらいの返答しかできないんだけど、大枠ではそういう選択をためらいなく決断できるという個人の強さというのは統制された組織的な力よりも全然得難いものであると信じたい。
規範を作るのがめんどうだからそんなことを言ってるだけかもしれないが、隅々まで目が届く範囲の小規模な組織を運営するとしたら、個々から上がってくる要求や問題点を咀嚼して流動的にルールを形成していくことだけが、その非力さやスケールメリットに劣る点を補っておもしろみにつながっていくんじゃないかと思うからだ。整合性とか周囲との温度差を常に念頭に置いて、いざとなったら全部自分で処理してしまえばいいという内向的な自立心を持ったひとを尊重してしまうところは(もちろん、そっちのほうがラクだから)自分にもあって、でもそういう個が集まったところで結局有機的に融合した集団にはなりえない。並列に機能するパーツを無理に一つの箱に押し込めて同じ作業をやらせているような状態だから、ちょっとした亀裂で簡単にバラバラになってしまう。

あ〜、話が大幅に逸れたな…。で、結局のところ8割方の作業が終了したところで問題が発生して、本日中に全部やり終えることができないという状況になった。彼女は自分でオプションを2つ提示して、僕がそれを選んだんだけど、決定が下されるとすぐ、事前に計画していた友達とのディナーのために、「みんなクリスマスにそんなに働いちゃダメだよ」みたいな言葉を残して帰っていった。
クリスマスは家族や親しい人間と過ごすもの、とか、そういうものすごく大きな枠の行動原則を持ってるひとたちっていうのは羨ましいなぁと思ってしまった。それって突き詰めると宗教と個人主義ということに帰結しちゃうのかもしれないが、帰宅の道すがら目にしたサレジオ教会のミサに群がる有象無象や、正月に初詣みたいなこととは単純に比較できないような気がするんだよね。むしろ社会や経済によって作られた“恋人たちの聖夜”みたいな強迫的な慣習のほうが比較材料としては妥当なんじゃないかなと思ったりして。それが常にマスの基準で語られることだったり、恒久的な材料が一つもないことがまたおもしろいので。

で、自分はどうしていたかというと、ちょっと日本酒を飲みすぎてしまい、ソファでへべれけになってテレビつけっぱなしで居眠りしてしまうというかなりすごい晩になった。なぜか番組ではピンクレディーがヒットメドレーを歌い踊っていて、よくわからないんだけどそれを見ながら泣いていた。なんで泣けたのか全然原因がわかんないんだけど、46歳になったというふたりの高く蹴り上げられた脚や小学生の頃の記憶と比べても全然衰えてないように感じる歌声を聴いていたらブワッと涙が溢れてきてね。
たぶん、こういうこと周りに言うと「歳だから」の一言で片づいちゃうんだ。実際そうなんだろうけど、最近自分でも分析できないようなことで泣いちゃうことがすごく増えて、なにがなんだかわからない。

ああ、そうそう、そういえば今日でまた一つ歳をとったんだった。

おめでとう(?)、じぶん。
ありがとう、じぶん。