いまさら『ターミナル』

微妙に巡り合わせの悪い映画だった。最初は飛行機の中で見ようと思っていたんだけども一緒に劇場に行く約束していた連れに猛反発され、日本で公開された時期は忙しすぎて映画館に行く暇がなかった。目黒の2番館でやってたチャンスも逃して、ズルズルと。

なめていた『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』は、スタイリッシュなオープニングのアニメから唸らされ、物語の核に据えられた結構ヘビーな親子関係が自分ちの親の境遇と重なっていろいろな想いが去来、ガツーンとやられてしまった。実話をベースにした人情ものでスピルバーグトム・ハンクスのコンビという意味では、2匹目のドジョウとも捉えられる『ターミナル』は、どのパーツもすごくいい出来なのに、ちょっとだけ組み合わせがずれてしまったがために傑作になり損ねたという感じを受けた。



以下おもっくそネタバレ注意




一番腑に落ちなかったのは、重要なキー・エレメントだったはずのジャズや最後の偉人ベニー・ゴルソンの扱いがあまりに粗末だったこと。開演直前のはた迷惑なタイミングでサインをおねだりするのは全編通して描かれたビクター(トム・ハンクス)のキャラ的に頷けるものだけど、その後目的を果たして再び空港に戻るためタクシーを呼び止めるビクターの背後では、まだベニーのサックスが鳴り響いてる。複数ステージの幕間に事情を話して、サインをゲットしたという設定なのだろうけど、このなんだか台無しにされてしまった感じを観客の大半は居心地の悪さとして受けとってしまうんじゃないか。当初はブロードウェイで「CATS」が観たいなんて話をしていたことから考えると、ビクターにとってNYという街やアメリカという国が旅の目的を超えて興味の対象だったはずなんだけど、ミニチュア版アメリカとして機能したJFK空港での長期生活を経て、結局彼はそんな一切合切の興味は失ったということなんだろうか。
敵役として登場する空港警備局のボス、ディクソンは、昼飯のスタイルから仕事上のポジションや部下たちとの関係性、インテリアの趣味までが執拗に描かれているのに対し、それ以外のビクターを取り巻く人物たちは、まったくと言っていいほど生活が見えてこない。あるのは、空港という閉じた世界での仕事や、少しだけそこからはみ出した“休憩時間”のような姿だけ。それは、ナポレオンだかの話で盛り上がろうとするアメリア(キャサリン・ゼタ・ジョーンズ)にしても、「空港の本屋で買う本など本当に読みたいものであるわけがない」という穿った見方をすれば、不倫とフライトに忙しい熟女スッチーという以外の情報は伝わってこない。
恋愛を言葉すらマトモに話せない他人任せで進めるイタリア人も、自分の起こした傷害事件で妻と子がひどい目に遭ってるかもしれないのに7年もシカト状態のインド人も、あまりに主体性なく“何かを待ちつづけてる”空港のひとたちは、ビクターというガンコで正義感の強い異物が投げ込まれた波紋で少しでも変わったんだろうか。JFKアメリカの象徴で、ディクソンが自分の境遇を評して言ってたように彼らはそこに囚われてるっていう図式なのだとしたら、勝手に商品を持ち出してさも自分からの贈り物だという顔で渡すとか官給の服を寒いだろうからとかってあげちゃうとかの中途半端なヒューマニティーを引き出すくらいにしか、待ちわびた外からの使者は機能しなかったってコトか。

いや、きっとラストの印象が違っていれば、こんなひねくれたこと感じずに、ザッツ・アメリカ!な感じで素直に喜べたパーツなんだと思うんだけどね。

ものすごーく金と手間暇のかかった密室劇だと考えるなら、やっぱりドアの向こうに出てしまうというのは反則だったかも。初めて外の世界に出た刹那、未練もなくすれ違っていくアメリアとタクシーに乗り込むビクターという対比で終わってしまっても良かったような。