武器よさらばと言おう

戦後60年、今夏の原爆関係の追悼番組や記事には例年にも増して力が入ってる感じがする。筑紫哲也のやっていた『ヒロシマ あの時、原爆投下は止められた』って番組では、マンハッタン計画に関わり原爆を開発し広島でキノコ雲の撮影をしたという科学者を初めて広島に連れてきて、原爆資料館を見せ被爆者と対談させるというものすごい企画をやっていた。
当人はもしかしたら軽い気持ちで受けてしまったのかもしれないが、まるで自分が原爆投下はおろかその後の核開発のすべての責任すらも負っているかのようにつるし上げられるとは思ってなかったようにも見えた。被爆者からはしきりに「謝罪して欲しい」という発言が憮然とした空気の中で続いていたが、正直あの場で謝罪を口にすることは無理だろう。終戦直後であればまだしも、今になってそれをやったら自分の人生はなんだったのか自分の国のために正義のためにと信じてきたことはなんだったのかってことになってしまう。
それにしても、何度も何度も「リメンバー・パール・ハーバーだ!」って原爆投下を正当化しようとしていたのは、なんだか滑稽だった。

そんなことを思いながらも、マイケル・ベイのクソ映画で「泣きました!」とか言ってるバカ丸出しの日本人がたくさんいたなぁと思い出して胸くそ悪くなったので、空いた時間に映画を観ようと思ったけど『アイランド』はやめておいた。プロットはそそられるんだけども。

横浜のシネコンに行ったので、時間ギリギリに『宇宙戦争』にすべり込む。もう公開から随分時間経っているというのに、まだ8割程度は席が埋まってるのに驚いた。だって、この作品、ネットでも周囲でも徹底的に評判が悪いんだ。ある映画会社の方など、「いやぁあれはひどいですよ。『戦国自衛隊1549』が大傑作に思えますよ。世界同時公開にしたのは悪評が広がる前にっていう戦略でしょうね」とまで言っていて、逆に怖いものみたさ的な思いも強くなっていた。しかし、しかしだよ、コレ、100点満点とは言わないけれど、かなりの傑作。そういえば『A.I.』も『マイノリティー・レポート』も悪評たってた割においらはかなり好きだったんだけど、これは次元が違う。好き嫌いのレヴェルを越えて「やられた!」っていうショックを受けた。

でも、軽く映画感想系のBlogを読んでみても、どれもこれも的外れで、もし自分が制作者側の人間だったら頭を抱えてしまうかもというようなリアクションもたくさん。ブロックバスターだから有象無象が勝手な期待を抱いて山ほど観に来ると言ってしまえばそれまでだけども、伝えたいことをちゃんと伝えるってほんと難しいんだなぁ…と思った次第。もちろん、すぐにはわかってもらえないとしてもまずは観てもらうことが大事だという考えもあるだろう。ただ、これだけ無名で無責任なスピーカーが増えてしまうと、ノイズのほうが耳に入りやすくなって本来届くはずだった人にも届かなくなってるかもしれない。


以下ネタバレあり


恐らく、駄作だとか金返せとか言ってる連中の大半は、あまりにあっけないオチが気にくわないとか、大昔から地下に埋まってるエイリアンの兵器なんて設定がおかしいとか、そもそもウェルズの原作をそのままいじらなかった部分をそうとは知らずに突っ込んでるのだろう。まぁ100年も前の空想にそんな無粋なことを言っても仕方がないだろうし、敢えてスピルバーグがそこに手を加えなかった意味というのも考えるべきだ。

僕はこれを、説教臭くなるのはわかってるけど敢えて今言わなければならない反戦・反武力のメッセージと受け取った。前半の無駄なく主要キャラたちの性格や属性をセリフ回しと短いエピソードの連続で見せていく圧巻の描写から、圧倒的な力でNYが蹂躙される中盤は見事すぎて息つく暇もないほどだ。その後、燃えさかる街を背景に不気味な雄叫び(?)をあげた巨大な宇宙人の兵器“トライポッド”が何体もあらわれ人間や建物をゴミのように消し去るシーンを観て、あぁこれはゴジラなんだなと納得した。日本人が核を落とされ第五福竜丸の事件があって『ゴジラ』を生みだしたように、911があってイラク戦争があってこの映画が作られなければならなかったのだと。

そういう思いで振り返ると、パニックして暴徒化した群衆に車を奪われそうになった主人公がその場を銃で鎮圧しようとして別の銃を持った人間に屈服するという描写(そいつは、結局別の人間に撃ち殺され車を奪われる…)や、やる気のない現代っ子丸出しな息子が突然右傾化して軍と一緒に玉砕覚悟で「あいつらぶっ殺してやる!」とか息巻いてるのに結局何もできずに逃げているという展開も、世界最強のはずの米軍がなんの役にも立たずかつてないほど無力に描かれていることも、すべて一貫性のある主張としか感じられない。

宣伝で言われていたような家族愛うんぬんは、確かにグータラ親父だった主人公を必死にさせる原動力ではあったんだけど、それはたぶん声高に叫ぶものというよりは、あの事件以降皆が意識せざるをえない(というか、そこにしか拠り所がない)ものとして顕在化したというほうが近いような描き方だった。その辺のさじ加減も素晴らしくて、特に見知らぬ人の善意で娘と生き別れになりそうになるシーンと、ラストの必死の思いでたどり着いた先、別れた妻の家族の輪にどうしても入っていけない主人公というシーンはすごく好きだ。

目的も何もわからない相手に攻撃され、日常がいっぺんに全壊する恐怖。そこで炙りだされる人間性。一緒に観た連れは、いろいろ思い出して気持ち悪くなってしまったそうだ。

なんにしても戦時下の超大国でこんな作品を撮ってしまうスピルバーグには、ビックリさせられた。普通の発想なら今こそ『インデペンデンス・デイ』だ!となるだろうし。同じような意味で観る気のなかった『エピソード3』も終わる前に劇場に行こうかと思い始めた。

宇宙戦争
宇宙戦争