体験を物語に転化するための思い切り

最近ドイツで出た雑誌「RAVELINE」で、真っ黒のページにLove Paradeの墓標が立ってるそうだ。正直、その話を聞いても何の感慨も抱かなかったんだけども、どうやったら次のフェイズに移行できるかなんてことを模索しているウチに、伝達の術がどんどん失われてしまっているという事態になりかねないなあということは思った。

エウレカ」の構想を断片的に聞いてる時点で、え〜それってちょっとベタすぎねぇかっていう話は何度も出た。ベタにすることの功罪とか影響の有無とかそういう判断基準ではなくて、まぁ単に気恥ずかしいとかかっこつけたいとかそういうことを自分は思っていたのかもしれない。でもウチら、テクノ村で御輿を担いでた張本人がだしに使われたとしてもそれで伝わるものがあるんだったらグダグタと下を向いて負のスパイラルに巻き込まれるよりよっぽどましだよなあという自分なりの結論に達したようなところがあって、今一番いろんなことの矢面に立たされてる上におまえはどっちの住人なんだよってなビミョーな位置にいる大がこの後どうやって決着をつけていくつもりなのかわからないけど、かなり早い時期に監督の想いみたいなものに応えたいなという気持ちを彼と共有できるくらいには僕も説得されていたし、やっぱりギリギリのエッジを歩いてこうというひとたちの信念にはかなわないなと思うわけ。

先日あまりにも眠れなくて、やけになって読み始めた戸梶圭太の新作「グルーヴ17」という小説も、なんだか作者の臓物をぶちまけたようなところがかなりあって、そんなことをつらつらと考え始めてしまった。正直、戸梶さんの作品は、過剰生産気味というか、どんどん毒が単なるスプラッタの血糊みたいになっていて、最初期の5冊くらいの痺れるようなやりすぎ感や映像的なイマジネーションは全然感じなくなっているんだけども、今回の作品は彼が昔から公言してるテクノ好きで自分で曲作ってるという趣味の部分をかなり露骨に話の骨格に採り入れたことで、興味ないひとには無駄に横文字の多い意味不明の説明が長々続く印象だろうし、詳しい人間にはビミョーに寒い描写が続くっていうどっちに転んでもあまり好ましくない結果をもたらしてるんだ。でも、冷静に考えると、我々がただただバカみたいに踊りまくってるのを周縁で眺めていたようなひとたちが、そのころ見聞きしたことをちゃんと自分の血肉にして物語を紡いでいこうとしてるのに、自分はなにやってんの?という風にどんどん思えてきちゃって、最初に書いたような思考のループにはまって鬱になりかけた。

いや、バカになって踊ってたんだったらまだいいんだけど、実はバカのふりしてただけなんじゃないか、とか。

日々ただ目の前にあることを消化していくだけで精一杯の日常を暮らしていると、目的意識は至近の課題をクリアすることにすり替わっていくし、掲げた目標も教室の前に貼られたお題目みたいに意味のない言葉の羅列と化す。で、いつのまにか精神構造とか知覚した後にそれを感じる経路がずれているんだよね。すごく微妙なずれで自分でもたまにしか認識できないんだけど。もういまさら、内在する衝動を別の形に転化することを自動的にやるのはむりだなということも薄々気付いていて、だから最近よくあるおべっかよりも、全然違うところにひとりで立ってるひとたちの思い切りのほうに何らかの異化作用を期待してみたり。
人に期待してる時点でダメなんだとか、そんなきれいごとはもう言わないくらいには大人になりました。


グルーヴ17
戸梶圭太『グルーヴ17』