難病モノとか五体不満足モノとか

昨日出たばかりの井上雄彦『リアル』6巻を買って、帰宅中に読んでいた。もう途中の久信の母親が倒れてしまうまでのエピソードで泣けてしまってダメ。バスの対面式の座席で自分の前に座ったサラリーマンとかOLさんに目が真っ赤なのを悟られないようにするのにかなり必死になってしまった。もっと若いころはきっと、こういう感じの物語展開では「けっ」とか思ってしまうひねくれた自分がいたんだけれど、もう実際に自分の親や近しいひとたちが倒れたり死にそうになったり、まぁそうでなくてもすっかり老けこんでいて、いろいろ実体験の中で感じてきたこととダブってしまうというわけだ。
最近どんなフィクションでも“泣ける”みたいなことがひとつの売れるキーワードになってることにはとっても嫌悪感を感じるし、死者が一定期間だけ蘇るとか難病で愛するひとが死んでいくようなドラマばかりが溢れかえってるのはほんとどうかと思うんだけど、『リアル』で描かれているような人間の生への欲求とか力強さには、なんというかこう照れがない部分も含めて毎回やられてしまって、また作者が同時に『バガボンド』で殺し合いの話ばかりを延々と書いているというのもすげーなと思ってしまう。このふたつが深いところではつながってるような部分ももちろんたくさんあるんだが、たった数百年で人間の命だとか、不具者であることだとか、そういうことに対する倫理観だの考え方だのってこんなに変わっているのだなぁと思ったりもするし。

もちろん『バガボンド』でも本位田又八というどうしょうもない普通の人間の目を通して描写される部分もあるんだけど、武蔵や彼を取り巻く剣豪たちは皆レベルの差こそあれ常人離れした才能や地位を持つものばかりなので、ときどき白々しい気分になってしまうこともあるんだよね。なので、パラレルに登場人物たちの生活や成長をゆっくりと描いてくれている『リアル』は、余計に沁みてしまうのかもしれない。キャラ立ちやヒーロー性を少年マンガという軸でしっかりさせていた『SLUM DUNK』からいい部分は継承して、なおかつそのタイトル通り地に足の付いた生を描こうとしているからね。

そんなときにふと考えたのは、ドラマの第2シリーズがいまやっている『Dr.コトー診療所』とか、映画『ミリオンダラー・ベイビー』との対比だったりする。

※以下、ネタバレ注意




『コトー』でも、ヒロイン彩香の母親が前シリーズで脳内出血で倒れたことで半身が麻痺しているという設定があり、また『クラッシュ』(監督のポール・ハギスは、ミリオンダラー…の脚本家)を先に見てある程度は覚悟していたもののその辛さに打ちのめされてしまった『ミリオンダラー・ベイビー』でも、事故で身体が麻痺した後の希望とか選択ということがテーマとして出てくる。まぁ、ひとが自分の人生で何を追い求めるかとか、どんなことを重要視するかなんてそれぞれ違うわけだし、その差異をどっちが正しいとかいうことは無意味だなんてわかってるんだけども、左手だけで苦労しながら卵焼きをつくってくれるというただそれだけのちっちゃなエピソードを大事にしている『コトー』のほうが、今の自分にはずしんと響くのだ。そんなにスポットライトを浴びたり、何かを残すみたいなことを誰も彼もができるわけでもないんだよ。でも、生きていかなきゃ、なんだよなぁ。

リアル 6 (6)
リアル 6

ミリオンダラー・ベイビー
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Dr.コトー診療所 スペシャル・エディション DVD-BOX
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