さよならなのだ!

なんか、お別れの日記しか書いてないなぁ、俺…。情けない。

まぁ、そんなこと言っても仕方ないので書きます。
現フジオプロ社長で赤塚不二夫の一粒だねであられる赤塚りえ子さんと会ったのは、たぶん94年頃で、当時はよくクラブで一緒に遊んだり地方にDJしにいくときになぜか車に同乗して一緒に行ったりした。彼女がロンドンに拠点を移して本格的に現代アーティストとして活動をはじめてからはすっかり疎遠になっていたけど、母君(不二夫の後妻)が亡くなって帰国し社長に就任してから、やっぱりクラブで一緒に踊って「あれぇ帰ってきたんだ?!」と抱き合って再会を喜んだ。

また遊ぼうとか言っていた割には忙しいらしくて全然連絡も取れなかったけど、ある日新聞を読んでいたら手塚・赤塚・水木という巨匠マンガ家たちの娘が一同に会して親のことやその作品、さらには音楽について語り合うという対談企画がやっていて、そのあまりにぶっちゃけた内容(手塚るみ子赤塚不二夫にホテルに誘われただの、「鬼太郎」の主題歌を電気グルーヴが手がけて悔しいだの…)に驚いて、朝日新聞の記者やるなぁと思った。しかし、これには裏話があり、赤塚不二夫トリビュート盤を企画していた三田格の仕込みだというのだ。そのCDのリリース情報が公になる前にremix誌の三田さんの原稿で裏話を読んだとき、うわぁそうなんだ、やられたわぁ、スゲエぜ三田さんと素直に感動した。昨夏に三田さん本人から聞いた話だが、メタモルフォーゼに赤塚りえ子と一緒に遊びに行った彼は、深夜に酩酊して床にへたり込んでしまったんだそうだ。そこに偶然居合わせ、心配して介抱してくれたのが手塚るみ子だったと。それまで猛烈なクラブ・フリークでありながらお互いに面識がなかった手塚と赤塚の娘たちが、そんな偶然で出会い交流をはじめたのだ。その話を急に思い出して、それでこの対談、それにトリビュート盤の企画を意識すると、ほんの一年ですごいことになったものだと感慨を抱かずにはいられない。
そして、7/29に正式にこのトリビュートのことが公になった。翌30日に、不二夫の元妻でりえ子の実母、登茂子さんが急逝したという話があって、そのたった3日後に、赤塚不二夫そのひともこの世を去った。なんだか、細腕社長の娘の成長とひとつのマイルストーンの発表を見とどけ、元妻の永眠を確認してから「これでいいのだ」とスッといなくなってしまったという気がして、なんとも言えない気持ちになる。オカルト的な話をするつもりはないけど、ここで書けないようなプライベートのことも含めて、赤塚先生は意識のない病院のベッドで、ちゃんとそういう状況を見守っていたのではないかと思いたくなる。

自分にとっても幼少時の人格形成や笑いの概念の大きな部分に影響を与えた赤塚マンガに感謝してもしきれないんだが、それよりも音楽によってつながった不思議な縁が、いまもこうして機能して、偉大な作家やその作品とはまったく別の次元で、小さいけれど力強い磁場を形成していることに感慨をおぼえた。ここ数年、ずっとそんなことばっかり考えてるような気もするけど、昨晩赤塚先生の還暦を記念したテレビ番組Youtubeで見ていて、改めていろいろと考えさせられた。あ、それとタモリは偉大だなという認識を改めた。

今日、1200人も参列したという通夜に行って、その国賓規模の催しにびびった(あまりに豪華な弔問客たちの顔ぶれ含め)のと同時に、受付を仕事でやっていた小学館の知り合いと挨拶を交わして、自分がそっち側にいないくせに今日ここに来られたことだけでもいろいろと感謝すべきことはあるだろうなと、そんな風に思いながら寺をあとにした。



赤塚不二夫トリビュート~四十一才の春だから~
赤塚不二夫トリビュート~四十一才の春だから~